2009年11月22日日曜日

すすめ上手

NLP勉強会に参加したときのこと。
時間に余裕があって、早めに会場近くのカフェに行っていました。
本でも読んで待っていようと思ったのです。
そるとそこに、コーチ仲間のIちゃんが入ってきました。
彼女は研修講師のほか、カラーセラピーもこなす、笑顔の絶えない人です。

話題は、私が受けたことがあるセミナーのことになりました。
私は自分が受けてみて良かったこと、その成果を、自分の体験として話しました。
彼女がそのセミナーを受けたからと言って、私には一銭も入りませんが、
私にとっては良いセミナーだったからです。

すると彼女は、はじめは「やらないてもいいかな」と言っていたのに
「本当は受けたいとは思っていたんです」と言い始め、
とても嬉しそうになってしまいました。
元々笑顔なんですが、体全体に弾みが出てきました。

そして彼女が私に言ってくれた言葉は
「ラッキーさん、すすめ上手ですねえ」

私は、コミュニケーションが不得意だと思って、
NLPやコーチングを学び始めた人です。
学びはじめの頃は、営業活動への苦手意識が強く、
その改善が、差し迫った必要としてありました。

その私に、すすめ上手という称号をくださったのです。
こんな風に、相手に喜んでくださるおすすめが、本当にやりたいことだなと思いました。

その後の勉強会では、自己認識について取り扱いました。
自分をどんな人として見るかによって、自己認識は変わり、行動は変わっていきます。
Iちゃんのしてくれた私へのラベル付けは、
その日の学習内容と、ぴったりシンクロしていました。

今朝、お礼のメールを出しました。
個人的な部分をのぞいて、全文を掲載します。


***** ここから *****

「すすめ上手」というラベル付け、ありがとうございました。
そうか、そういう自己認識があったのか。
いただきます。おいしいです。

営業が苦手なんて言っていた私は、実はすすめ上手だった。
犯人はおまえだ!みたいな展開ですが、オレやっちゃってたんですねえ、ふむふむ。

コーチングやNLP自体が、なりたい自分になるための”おすすめ”なのでしょうね。

以前私は研究所でシェアするときに「そそのかし」という言い方をして、
他の言い方はありませんか、といわれたことがあります。
そそのかすというと、その人の行きたいと思っていないところに
引っ張っていく印象があるからでしょう。

私は「そそのかし」は、ちょっといたずらな感じで好きです。
本当は行きたいのに行っちゃいけないと規制していた楽しいところに、連れて行ってしまう、というニュアンスがあって。

その人の行きたいところ、やはりそれが決め手ですね。
営業という言葉で想起してしまうのが、売り手の都合、売り手のマップ。
だから私は勝手に、「営業」にネガティブイメージを持ち続け
苦手意識を持ってしまっていたのです。

結論は出ました。
「営業」という言葉を、売り手の都合という意味で使うなら、
そんなことしなくていい。
「営業」という言葉が、相手のなりたい姿を実現するすすめ上手という意味なら、
もうできている。

*****ここまで****

あなたもすすめ上手になってください。
売り手の都合ではなく、買い手の本当になりたい姿を実現する人と自分を位置づければ、
あなたは人に喜ばれる存在となっていきます。

2009年11月15日日曜日

やる気と評価基準

MIXIのゲームにはまっている。牧場でお世話をすると、「お金」が増えて、順位が上がるというもの。植物や動物を相手にしながら、実はビジネス1.0。はまる理由は、評価基準が単純であること。頑張った結果が見えるから。フィードバックが得られるからだ。

現実の社会では、お金だけを評価基準にしてしまうと、悲惨だ。人間の多面的な評価が失われる。仕事の成果は利益、要するにお金なのだが、お金に至るまでの要素が多いため、複雑系になっている。評価基準を、もっと単純化すると、フィードバックがわかりやすくなって、進歩成長を感じやすくなる。

人のモチベーションを挙げるには、本当にしたいことと、仕事の内容やミッションとが一致していることが望ましい。私の仕事は、コーチングやカウンセリング、グループへのファシリテーションなどを用いた関わりの中から、本当の目的を引き出して仕事につなげること。

そうした「人」への関わりが、その人のないたい未来をはっきりさせ、実現させて、結果的に会社の成果も上がると考えている。だが、さらに必要なものがあって、それが、評価制度だ。本人がやりがいを持っていても、会社の評価が制度的に保証されなければ、やる気はやがてしぼんでしまうだろう。

シェアか、利益率か。この違いだけで、行動面では拡大か縮小かの違いが出るかもしれない。なにを評価するか、それは構成員に示すあり方の表現なのだ。ホームページにはミッションが良く書かれるようになったが、それと評価制度が一致していることが重要だ。

「お金」「利益」という、企業にとっての評価基準の手前に、進歩成長や、あり方が反映されるような、単純な評価基準があるといい。比較しやすい単純な評価基準を持っている会社は多いが、ノルマ達成や管理に用いられて、やりがいにつながるフィードバックという視点では用いられていないように思う。

もともと、測定するのは、成果につながる行動ができているかというフィードバックのため。だからそれを使って「人」ではなく、「業務フロー」を管理し、人には、自分をなりたい姿に変えていくための素材として利用してもらう方がいいのである。子供の成績表が本人が利用するためにあるのと同じである。


  *ツイッターにつぶやいているうちに長くなったので、こちらに転載しました。

2009年11月12日木曜日

気づきのライブ中継

気づきの瞬間は、いつでも訪れる。さきほど知人にメールの返信をしているときも、そうだった。NLPを共に学ぶ方から、その後の気づきを教えてくださいというメールをいただいた。しばらく放っておいたのに、今日はなぜか目について、返信しなくてはと思った。
書くことがないなあと思っているうちに、思い出すことがあり、今自分に起きている制限を、はずすことができた。書き終えてみて、こんな風に自分に気づきが訪れるんだなあ、と改めて思った次第。

以下、その方に送ったメールをそのまま載せる。

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Y様

メールを頂いてから少し日が経ってしまいました。
同じくNLPを通して学びを深めていく仲間ですので、
指導と言うよりも、共に学んでいけたら嬉しく思います。

これからの学び気づきですね。
実はYさんとセッションを組んだことは覚えているのですが、
自分が何を問題として投入したか覚えていません。
思い出せるのは、Yさんの誠実な人柄、という印象しかないのです、
申し訳ありません。

と、ここまで書いてファイルを取り出しました。
ああ、あった。
サイコロ。葛藤の統合で出てきたシンボルです。

ブログが書けない、セミナーのプログラムが提出できない、という問題。
サイコロというシンボルが示した、
「とりあえず投げてみる、あとは出た目で勝負」という感覚。
これで楽になっています。

あらかじめ約束して、その通りに結果を出そうとして、
そうはならない可能性をネガティブに捉えて、
踏み出せなかったのですが、
サイコロの目はどう出るかは予測できないのだから、
予定通りに出そうとすること自体が間違っている、と思うことで、
ストッパーをはずすことができました。

行動としては、
ブログの再開
写真教室のホームページを作った、
ツイッターでのつぶやきの開始
セミナープログラムの基盤となる概念図(マインドマップ)の完成、
以上4つを手に入れました。

上記3つは発信、4つ目は発信の基盤整備。
ということで、今年のテーマであるアウトプットが、
一歩進みました。

今日はツイッターに一言書くのに、
なにかもっともらしいことを書こうとしている自分がいて、
また窮屈になりかけていたので、
Yさんへの返信を書くことで、サイコロのことを思い出せて、良かったです。


ここまで書いておいて今更ですが、
これってYさんとのセッションの時でしたか?
まあいいか。
自分的に意味あったし。

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以上、私が一人で気づいたときのライブ中継でした。

2009年11月9日月曜日

逆風を求めて

風車は風に向かう。向かい風を求める。もし風がなかったら、子供は自分が走って、風車を回すだろう。

風力発電は、風の力をエネルギーに変える。風は圧力である。その圧力を正面から受けるから、エネルギーが生じる。風を横から受けていたら、風の力をエネルギーに転化することはできない。風を避けてしまったら、風力発電機は、ただの鉄くずである。風に向かって正面を向け続けることが、大きな貢献となるのだ。

どんな駆体が、支柱への負担を減らし、風の力を無駄なくエネルギーに変えられるか、そこは考える必要がある。台風のような強風の時には発電を停止する製品が多かった。遠心力で回転軸が揺さぶられて破損に至る。回転が速すぎて加熱して発電機がもたない。こうした問題を解決したのは日本のメーカー、ゼファー(製品名エアドルフィン)だった。微風でも風速50mでも発電できるという。大きな改善点は、失速状態をつくって回転数を落とすことだった。失速すれば即応性と発電効率が落ちるが、暴風時に限って、敢えて失速するように設計している。

風力発電は、周囲の抵抗にもめげず、逆風の中頑張っているビジネスマンにも似ていないだろうか。強風にあおられて今にも飛びそうな心を持っているなら、一つ覚えておいて欲しい。風を正面から受け止めることこそ、もっともチーム全体のエネルギー効率が良く、生産的なやり方だということを。風は避けるものじゃない。求めるものだ。ぶれない強い軸を持ち、壊れそうなときには上手に失速し、故障知らずで回り続けようじゃないか。

2009年11月7日土曜日

Twitterを始めた

いままでろくにブログを書かなかったのだから、ツイッターになって何が変わることがあるかと思っていたが、気持ちの変化が起きている。140文字という制限のため、何か内容のあるものを書かなければという気負いを持たなくてすむ。

他人のつぶやきは、内容のあるものの方が確かにおもしろい。だが多くのつぶやきはむしろ、読み物として提供されているのではなく、いまこんなことしてる、というだけ。表しているのは内容ではなく、気配なのだ。人の気配。ネット上でなかなか感じることのできない、ライブ感である。

人間いつも人の役に立つような発信を続けているわけではない。人の役に立たない時間だってたくさんあるのが当たり前だ。そんな姿を、そのままそこに出している。読ませようとか、伝えようとか、押しつけがましい努力はそこにない。だからやりやすい。広い部屋の向こう側で「何かやってるな」、くらいの存在感だ。

無理に近づこうとせず、放っておいてくれながら、気づいてくれている。その緩い認知感覚が、リアルの感覚に近い。実際は文字で読んでいるだけだが、モニターの向こうには確かに今、「あの人」が、なにやらもぞもぞと動いている。

今までブログを掛けなかったのは、誰に書いているかわからなかったからだ。それがツイッターだと、この先には知人の誰それが、リアルタイムに居ることがわかる。そのことで、ネットが空虚なバーチャル空間ではなく、実際の空間のように感じられたのである。

知り合いに囲まれた大部屋で仕事をしている。だが部屋はやたらとガラス張りでドアも広く、誰でも勝手に入ってきて、話を聞いたり答えたりできる。そういう公共の場所。オープンスペース。近い場所としたら、図書館だろうか、ホテルのロビーだろうか。仲間内で会話ををしていながら、近くを通った人も話に加わってこられるよう、わざと音を漏らしている。そんな絵柄だ。

こういうイメージを持つことが、私にとっては重要だ。もしネットに文章を公開することを、公共の場所で会話をしているつもりでやれば、ルールもマナーもわかっているから、ずいぶんとやりやすくなる。

やはり、理屈で考えて頑張るより、感覚的に理解した方が早い。ツイッターなら、しっかりした文章を書こうなんて野望を脇に置いて、ネットの向こうに人の気配を感じながら、書くことができそうだ。

2009年11月6日金曜日

またまたタイトルを変えました。

ブログのタイトルを「LuckyWonder」に変更しました。時々変えたくなるのです。そのときにしっくりしたタイトルでないと、だんだん書く気がしなくなる。今までは、変えちゃいけないと思って、永続性のあるようにと、頭をひねっていましたが、きっとそれが良くないのです。

NLPのセミナーで私と組んだかたが、私の本質を「変化する人」と言ってくれました。そのときの「まさにそうだ!」という嬉しい気持ちは、忘れられません。一貫したことを言わなければいけない、という自分への縛り、これがどんなに自分の動きを止めていたことでしょう。

変化する。それも一つの人生態度だと思います。状況が変化しているのだから、自分が変化しないのは、むしろおかしいですよね。臨機応変に、即興的に、状況と関わり合って、自分にも環境にも、定型的な安息を求めないこと。この態度こそが、一貫している変わらない自分かもしれません。

私がずっと、こうでありたいと願って来たあり方は「自在であること」だったじゃないか。その自在を手に入れるために、様々な学びを試み、チャレンジし、トレーニングしてきたんじゃないか。今それを思い出して、ちょっと心が浮き立っています。

あー、変えてスッキリ。

2009年10月29日木曜日

サンシャイン牧場

このところMIXIのアプリ、サンシャイン牧場にはまっている。アプリと言っても要するにゲーム。牧場で作物を育てたり動物を飼ったりする。日に2~3回、平均15分程度アクセスしている。なぜアクセスしてしまうかというと、マイミクが作物の成長を促してくれたり、出来た作物を収穫していったりするからである。ブログを書かないときには、MIXIの足跡はあまりチェックしないのだが、このゲームだと、マイミクさんが畑になにか変化を作ってくれるので、つい見てしまう。

私のマイミクは直接会って顔のわかっている人たちなので、仕事もわかっている人が多い。だから、マイミクさんの畑を見て、「仕事中になにやってんの」とか、「友達多いんだなあ」とか、「あ、家に帰ってきたんだな」とか思ったりする。タイミングが合うと、こちらがマイミクさんの作物の成長を促した数分後に、お返しが帰ってくることがある。するとまたこちらから畑に訪問したりして。

相手の姿がなんとなく想像できると同時に、ほったらかしておいても良い緩さがある。だからメッセージ機能があっても、全く使っていない。

いままで、携帯を手放せない人、オンラインゲームにはまる人、ツイッターでつぶやく人たちを見て、そんなにつながりたいのは心の病気に違いないと思っていたが、これもありかな、と思うようになった。

ゲームの先にあるのは「気配」なのだと思う。相手のメッセージにきちんと答える義務もない、なんとなく近くにいる感じ。緩いながらも、頻度が高く繰り返されるやりとり。ここが味噌なのではないだろうか。ごく小さいけれど頻度が高ければ、頭に残る。何度もその人のことを思い出す。そのことで、その人への親近感が増し、久しぶりにあったときでも、今朝の気分まで共にしていたように思えてしまう。

五感を伴わないからと、少々疑問を持って見ていたネット上の交流ツールだが、メッセージにはきちんと応えなくては、という常識を捨てれば、気持ちを乗せるツールになりそうだ。

きちんと伝えようとして文章化すると、かえっていろいろな意味に深読みできてしまって、それを修正するためにさらに長文になり、どう書くか悩むことになる。そうではなく、普段からの気配のやりとりで、互いの距離間を縮めておく。そんな方法もいいかもしれない。長文に悩むより、かえってストレスは少なそうだ。

私はここにいるよ。時々あなたのことを思いだしているよ。きっとそんなやりとりなのだ。もうしばらく続けてみようと思う。